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主観を磨く

カラヤンについての概念

最近中山さん(id:taknakayama)がカラヤンについて書かれています。個人的にカラヤンに対して強い興味があるわけではないので、なるほど、と納得をしていたのですが、あまりに何度も取りあげていらっしゃるので、少し考えてしまいました。

私は、シュンポシオンのときにせるげー(id:sergejO)さんが言われた話が新鮮に感じたことがありました。

カラヤンというだけで有難がる人がいる」

私にはそもそもそんな概念を思い浮かんだことがなかったので、とても新鮮でした。よくよく考えてみれば、CDショップに行けばカラヤンのCDがこれだけあり、クラシックを知らない人も名前くらいは聞いたことがある人がいるのでしょうから、こういう概念は当然といえば当然です。灯台下暗しというか、とにかく気づきそうで気づかなかった概念でした。

音楽以外の判断要素

音楽というのは、野球のように勝敗が白黒付くものではありません。そのため、聴衆の立場ではその個々人が感じたことが全てです。個人の感想というのは、これまで重ねられた経験との比較と、その場の音楽から発生します。あまりクラシックを聴いたことがなければ新鮮な感動が発生し、たくさん聴いたことがあれば、これまでの経験と比較され、感想が生まれます。

ただ、人間というのはいい加減なもので、自分が今まで聴いてきた音楽以外の要素でも判断しようとしてしまいます。「〜コンクール〜位」、「CDの金額」、「演奏者の有名度」、「評論家推薦」、「その人が好き、嫌い」、「見た目が好き、嫌い」…。残念なことに、これらは音楽から発生したものではなく、他人の評価など音楽以外から発生した感覚です。これらが自分の音楽に対する感覚とどのような関係があるのか、私はまったく無いと思います。

この辺は、音楽や美術などの芸術を鑑賞する場合にもっともハマりやすい落とし穴だと思います。私も常にこの穴に落ちないように気をつけていますが、もちろんよく落ちます。ただ、私が心がけているのは、ここのようなpublicな場であれ、偉い先生に対してであれ、その音楽に対して、自分自身が感じたことを言うようにしています。常に自分の感覚に、音楽以外の判断材料が存在していないか確認するためです。とても勇気が要りますが、アウトプットを意識することで、感覚が鍛えられます。

人間が感じることは主観にすぎません。客観が存在するかのような錯覚を受ける世の中になっていますが、私は客観は努力目標に過ぎないと思います。人間が完璧に客観を表現するのは不可能です。だから、幻の客観性を磨くのではなく、主観以外の要素が入っていないか常に確認しながら主観を磨く努力が必要なのです。そうすることにより、自分がより深い本質に近づき、毎回新しい発見がある。これが芸術鑑賞の楽しみなのではないかと思うのです。

カラヤンベルリンフィル

さて、せっかくなので、私のカラヤンの好きな演奏を書いてみましょう。

邪道と言われようが、ブラームスの交響曲第1番です。重戦車と言われた低音群、圧倒的に厚い弦楽器、すばらしい音色の金管、4楽章のコラールの金管の伸び。とにかく圧倒的です。細かいところとか、深み、曲の意図など考えると色々ありますが、ここまで圧倒的な演奏は他には無い。これこそ、帝王の極みだと思います。

ブラームス:交響曲第1番&第2番&第3番&第4番

ブラームス:交響曲第1番&第2番&第3番&第4番

他に好きなのは、序曲集。エグモント序曲はすばらしいし、J.シュトラウスもなかなか。個人的に一番好きなのは、ウェーバーのオベロン序曲でした。バランス感覚といい、スピード感といい、こういう演奏をするのはなかなか難しいのではないでしょうか。そういう意味でも、CDを買う際は無難な指揮者であり、オーケストラなんでしょうね。

Famous Overtures

Famous Overtures

ああ、これくらいしか出てこない…。そんなにカラヤン聴かないもんで。勉強不足ですねぇ。

あと、カラヤンもすごいのですが、やはりベルリンフィルの実力が大きな影響を与えていると思います(もちろん、ベルリンフィル以外でも名演はありますが)。実力的には圧倒的なオーケストラです。私は、何かの曲を聴きたいときに、無難を狙うためにベルリンフィルを買ってしまうことがあります。指揮者は無視で。聴いてみると可も無く不可も無く、ということは多いですけど。

あ、ベルリンフィルで好きな演奏は、音楽監督降りてからのアバドとのコンビです。マーラーの演奏は生で聴いてみたい。でも、アバドはまた病気になったみたいなので、もう聴けないかもしれませんが…。アバドさん、がんばって!