人の心はどこまでわかるか

人の心はどこまでわかるか 河合隼雄 ★★★★☆

人の心はどこまでわかるか (講談社プラスアルファ新書)

人の心はどこまでわかるか (講談社プラスアルファ新書)

心理療法という観点で、日本人の心の問題を書いた本。やわらかい語り口だが、よくよく見てみるとけっこうきついことを書いている。

先日の秋葉原の事件で、原因は家族だとか、派遣だとか色々言われているけど、この本を見てもやっぱり日本人の家族観、生活観、労働観は変わってきていて、いつまでたっても過去の考え方を変えられない現状が色々な歪を生んでるんだろうなぁ、とこの本を読んで実感した。

家族はみんな違う方向を向いていて、バラバラ。家に母親がいて、父親は仕事だけしてればいいという時代にはまだ良かったのかもしれないけど、それじゃあ子どもに大学にも入れてあげられないとなれば母親も働いてみんなベクトルが違う方向に。それじゃあ、子どもが孤独感を感じるのも無理はないだろうなぁ。働いていると、否応なしに長時間労働させられるわけだし…。

もうわれわれの世代は変わってきているのかもしれないけど、もう少し家庭に時間を取ったほうがいいんじゃないかなぁと思う。それが無理なら、自分の充実感を得るために仕事がしたいなら、家庭、もしくは子どもは作らないと徹底する。子どもに時間を作ってみて、こいつは勝手に育つ、親の力は要らん、ということになったら、手を引けばいい。でも、中には親の力が必要な子どももいるんだよね。

未来の日本を作る人間なんだから、国としても社会としても会社としても、大事にして当然でしょう。少子化とかいって、生まない人たちのせいにしている感があるけど、もともと子どもを大事にできない空気の国で子どもを生もうと思うのかね。

このネタについては、この記事が面白い。本当に家族の方を向いてないと、そのうち女性に、奥さんに愛想をつかされるから気をつけたほうがよいですよ。いやぁ、この対談にはちょっと恐怖を覚えました。「とにかく、根本から教育しなおさなきゃいけないとなったら、男を替えちゃったほうが早いもん。」だってさ(笑)。
最強ワーキングマザー対談:http://mainichi.jp/life/kaasanchi/news/2008/06/54.html

この本と関係ないけど、派遣について。IT業界は建築業界と同じだから、下請で派遣されてきているような人たちがいるんだけど、社員よりその人たちの方が貢献していることがある(でも給料は社員のほうがべらぼうに多い)。これはなぜかってね、下請は働かないと切られるからですよ。つまり、ちゃんとやる人しか残らない。だからこそ、本人たちもちゃんとやろうとするから、社員より貢献していたりする。でも!、でも社員のほうが給料がとても高い。

これを考えると、どこの既得権益を削ればいいか一目瞭然だと思うんだけどね。

かなり本からはずれてしまった…。私も、削られないように、削られても生きていけるように努力していかないとね。

P.57
とくに日本の社会には時間感覚にあいまいなところがありますから、つい長引かせてしまいがちですが、やはりこれを守らないと、結果的にクライエントのために、また自分のためにも、悪い影響が出てきます。

P.65
「あなたが一生、お父さんのお金をもらって生きるつもりなら、もうここに来る必要はありません。私はそんな人のためにこの仕事をやっているわけじゃない。いますぐ帰ってください」
これはいわば父性原理での対応です。父性原理には「切断」の機能があります。

P.85
先の人は、幻聴がなくなったことがまた一つのつらさになったわけですが、私たちは、治ったなら、治ったときのつらさもあるのだということを知っていないといけない。そのときに、こちらがまるで自分の手柄かなにかのように勝手に喜んで、「やった。よし、今度、これを学会で発表してやろう」などと考えていたりすると、その人が自殺したりすることもあるのです。それは、こちらの気持ちが、その人の体験している悲しさからかけ離れていくからです。
普通の生活ができない苦しみと、普通の生活ができるようになった苦しみと、両方があるということを、私たちはつねに念頭に置いてクライエントと接していかなければなりません。

P.129
禅をやっていた人から聞いたことですが、禅の修業を長くやっていると、幻覚などが出てくるようになるそうです。たとえば天狗が出てきたりすると、その天狗をどうするかということを考えるのではなく、自分の姿勢に気をつける。すると、ちょっと眠くなって姿勢が崩れていたことがわかる。そこで、それを正すと、天狗はすと消えていく。

P.135
たとえば、担任の先生が、「あれは非行少年だからどうしようもない」と言ったら、「ほう、そうなんですか」と言って、それに耳を傾けて聴く。教師が非行少年はいかにあつかいにくいかということをとうとうとしゃべりますから、そを「ふんふん」と感心しながら聞いて、それから、「それにしても、先生、なんとかならんでしょうかね」と言ってみると、おもしろもので、突き放していた教師のほうから、「いや、こんないいところもちらっと見えたりするんですよ」などと言うようになります。

P.142
さて、そこで、現代の労働、働くこととはなにかを意味するかということですが、これをひところで言うのがむずかしいのは、日本人は、宗教性とか倫理性に関して、いろいろな要素が重なった生き方をしているからです。その意味では、日本人は世界的にも不思議な民族と言えます。
キリスト教やイスラム教の文化圏では、一神教の世界ですから、倫理例も含む行動パターンが非常にはっきりしています。そこでは、働くこと、聖なること、あるいは遊びなどが明確に区別されます。だから、彼らは仕事が終わればすぐに帰ってしまうし、夏に一ヶ月くらい平気で仕事を休んでしまいます。
ところが、日本人はそういうのをすべて込みでやっている。仕事が好きな人は、それが遊びにもなっています。こういう人が一ヶ月も夏休みをとっていたら、それこそ逆にノイローゼになってしまいます。

P.154
実感のなさ、根底の空虚さを抱えて漂っている若者が増えてきているのではないかということです。
時代の要因としては、くつか考えられるでしょう。テクノロジーの発達で生活が便利になり、身体を張った親子関係や、五感を鍛える実体験のチャンスが減ったこと、偏差値の刷りこみ教育により、大学で知的限界にぶつかると、全人格を否定されたように自分を見失うこと。親の世代がもっていた進歩信仰の崩れ、どんなに努力してもリストラされたり、地球も滅びるかもしれないという破滅信仰がとってかわったこと、等々。なにもかも外的には豊かな状況で育ち、ハングリーになりようもなく、だから満たされようもないという前代未聞の状況が広がっているように思います。

P.155
人間が生きていく場合、ある程度、モノがないほうが生きやすいのではないかと私は思っています。あまり豊かすぎると、自分の目標が見えなくなってくるからです。

P.188
昔から、父親といつも対話していた人など、めったにいませんでした。親父はただこわいだけの存在でしたし、家族旅行など、なにもしていませんでした。しかし、昔はそれでうまいこといっていたわけです。その、なんとなくうまいこといっていた状態を「一家団欒」と称していただけで、「一家団欒」が文字どおり行われていたわけではありません。

P.190
かつての日本の家族というのは、無言のうちにも圧力がかかっていました。「しがらみ」というものがあって、好きなこともできないところがありました。そういう中で欧米流の個人主義を実践し、自分が好きなことをしようと思ったら、家族から切れなければなりませんでした。
日本人は会社などでも同じような形態でやってきました。会社がいわば一つの「イエ」のようになっていて、昼食も一緒、仕事が終わったあともみんなで一緒に飲みにいったりします。そして、飲みにいってみんなで和やかにやっているようなことは家庭にはもちこみませんから、子どもにとっては、おやじはただこわいだけの存在で、それも一つの圧力になっていました。そして、家の中には母親と子どもだけがいて、いわば下請作業みたいなことをやっていたわけです。
ところが、いまでは女性も外に出て行けるようになりましたから、パート先とか趣味のグループなど、女性もどこかに「イエ」をつくっている。だから、いまでは名実ともに家族はバラバラの状態です。

P.192
そこで、「日本本来の家族関係に返れ」などと声高に叫んでも、返れるはずはありません。昔の家族は、なにも好きでそうしていたわけではなく、言わず語らず、やむなくそうしていたわけですから、いったんそのタガがはずれたら、覆水と同じで、もとには戻りません。そういうことを言う人に限って、自分の家がうまいこといっていません。
ですから、「返れ」ではなく、これから日本の家族のあり方を新たにつくっていくというくらいの強い心がまえでないと、だめだと思います。

P.206
平均的に言えば、このくらいの経験を積んだ人なら、このくらいはできるだろうという意味での目安はあるかもしれませんが、それがコロッと変わるかもわからない。つまり、自分は熟練者であると思って慢心したら、いっぺんに初心者よりもだめになります。とくに自信満々の人は絶対にだめです。人の心に対して自信満々になりうるはずがない。自信満々になったら終わりです。