自分のモノ

始まれば終わりがくる。出会えば別れが待っている。モノは壊れる。生き物は死ぬ。当たり前なことだけど、実は実感しにくいことなのではないか。そして、これを前提にすると、「自分のモノ」なんていうのはこの世には存在しないのではないかと思ってしまう。そのうち自分もモノも消えてなくなるからだ。「自分のモノ」という錯覚とは、現時点で自分のテリトリー(縄張り)に入っているだけなのではないかと思う。

加えて、自分の話したこと、書いたこと、作ったものでさえ、自分の脳から外に出した時点で「ただのモノ」となる。一度出たものは自分だけではコントロールできないものとなる。だから、それをいくら守ろうとしても守れないことが出てくる。自分が生み出したものでもだ。悲しいけども、それが現実である。

そう考えると、私はどうしても誰かと一緒に作り上げるものは、自分のものだと思えない。仕事も音楽も何でも。どこか一歩引いたところで見て、常に終わることを考えている。終わった場合、私がいなくなっても大丈夫だろうかと考えるが、いつも結論は「私がいなくても大丈夫」であるところが、私の無責任なところなのだろう。

とはいえ、「これが私のモノだ」と執着するよりはいいと思っている。何か手に入れたという功績はあったとしても、それは本質的に自分の物ではないのだ。もう外に出ている時点で公共物となる。これは私が面倒を見ようが、他人が面倒を見ようが、「そのモノ」にとってはなんら変わりがない。必要なければこの世から消える。それだけだ。何かに執着している人を見ると、「別にあなたがやらなくてもいいんだよ」と言いたくなる。

そんなことを考えているせいか、私は自分ひとりでモノを作りたくなる。これは、誰かに邪魔されずに自分の思うとおりに作りたいからだと思っていたが、どうもそれだけじゃないらしい。私も他の人と同じように「自分のモノ」が欲しいようだ。しかももっと独占力が強いモノが。

それがいつまでも自分のモノであるわけがないとわかっていながら。きっと自分の手から離れそうになった瞬間から次の自分のモノを探し始めるんだろう。私は幸せの青い鳥症候群なのかもしれない。