ディタッチメントを持って

Attacking PHP(Matzにっき)

Ruby開発者のまつもとゆきひろさんが、PHPがいかにいけてないかに言及し、波紋を広げまくっている。こんなにPHPって愛されているんだって初めて知った。

個人的にもPHPは自分に合ったから使ってるわけだが、これといった強い特徴が無くて、中途半端な言語だなぁとは感じていた。色々な他の言語のいいところを取ろうとして、結果的にどれもそこそこ合格点くらいで、イマイチ決め手が無いというか。初心者に扱いやすいってのは確かにあるかもしれないけど、それがまつもとさんの言うセキュリティの懸念になっているわけで、それは否めないところはあると思う。

その反応として、PHP擁護を発言している人も多いのだが、結構感情的になっている発言もある。好きなアーティストを批判されて反応しているような感じだろうか。自分が批判されている感覚と変わらないのかもしれない。そういう意味ではとても面白い。気持ちはわからないではない。

言語の言い合いは宗教戦争のようなものだと言ってる人がいた。しかし、宗教は自分の中に作るものだが、PHPは自分の中にあるわけではない。プログラムを作る前には、もちろん頭の中で構想するわけだが、作ってしまえば、すでに頭の中から出てしまっている。その時点で、三人称なのだ。

「三人称」は、「普通がいい」という病(泉谷 閑示)という本にあった考え方だ。

西洋の個人主義の場合はどうなっているかというと、一人称の自分が、三人称の人に話をしている。一方、相手側に回ってこの関係を見てみれば、相手側も相手自身の一人称をしっかり持っていて、その対象である私は相手から見れば三人称になっています。

さて一方、日本人の対人関係はどうなっているかというと、0人称の人が、二人称の人に話しかけている。わかりやすい例で言うと、日本人は自分の意見を人に言うときに、相手が自分より目上であるかなど、自分と相手との関係性によって、まず語尾が変わる。それだけで済めばまだいいのですが、たいていは内容まで変わってしまう。

これはあくまで日本人の対人関係性の話しなわけだが、物事についても似ているような気がする。自分と相手の関係は、別々ではなく同一であることを要求する。思い入れがあるものは、自分の一部になるのだ。だから、自分の外にある『他の何か』であっても、自分の一部を批判されたようになってしまう。

茂木健一郎さんのBlogにこんな記事があった。
統計的有意差がないということは

たとえ自説について議論する際にも、ディタッチメントを持って、それが自分によって提出されたということを忘れたかのように、公平、かつ客観的に論ずるべきだという態度は、多くの科学者によって共有されているように見えました。
 「この理論は、あそこは長所だけど、ここはまだ弱いね。この部分は実験データによってサポートされているけれども、あの主張はまだ裏付けがないね」
 あたかも、自分の目の前の机の上に置かれたオブジェを眺めながら、皆で「ここはちょっと出っ張っている。ここは引っ込んでいる」と議論しているかのような、ある意味では狂気とさえ言えるような静かなディタッチメントの雰囲気がありました。その点こそに、少なくともイギリスの経験主義における科学の最良の伝統があるということを、私は思い知らされたのです。

もう自分の外に出てしまっている時点で、自分の物ではない。そう考えることにより、もっと本質に近づけることができる。自分の一部であるという色眼鏡をかけると、どうしてもその色で見えてしまうわけですね。

PHPが好きというのはとりあえず置いておいて、その利点欠点をディタッチメントを持って眺めることで、自分でその欠点を補い、利点をさらに引き出して、いいシステムが作れるようになると思う。PHPが存在している目的は、何かの柱となり壁となるためだ。好きかどうかは関係ない。

私もPHPが好きだからこそ、そう思う。