自立について

今週の火曜日に、NHKのプロフェッショナルイチロースペシャルをやっていた。イチローが話すことのほとんどに納得していたのだが、中でも「自分を貫くのは厳しい世界だ」ということには納得してしまった。イチローは自分の納得したことしかやらない。それはあるときには反発を生むだろうし、協調性という意味では難しい面もあるだろう。ただ、その分全てを自分で背負わなければならない。誰も助けてくれない。そういう意味で、自分を貫くという選択は、いばらの道を選択するようなものだと思う。

そんな中、こんな話が。

「個」としての精神的自立,自助の精神,パブリックな意識,などが含まれる。梅田氏はさらりと書いているが,これらの「精神的な構え」をとれるようにするのは難事であって,大げさに書くなら,明治以降の日本近代化における最大の問題である。

自分を貫くという結果が「個」になる。「個」になるには、「精神的自立,自助の精神,パブリックな意識」が必要だということだ。このような精神は、日本人には薄いことは確かだ。決断を周りの意見に左右されたり、どこか横にいる人に頼ってしまい、自分自身はいい加減にやったり。確かにそれは楽なのだが、その分「個」が無くなる。少し話はそれるが、付き合い残業が減らないのも、そういうことだろうと思う。

そして今、村上春樹の本を読んでいる。その35ページに以下のような記述がある。

(他人との齟齬があった際に苦しい想いもするという話の後)
しかし年齢をかさねるにつれて、そのようなつらさや傷は人生にとってある程度必要なことなのだと、少しずつ認識できるようになった。考えてみれば、他人といくらかなりも異なっているからこそ、人は自分というものを立ち上げ、自立したものとして保っていくことができるのだ。僕の場合で言うなら、小説を書き続けることができる。ひとつの風景の中に他人と違った様相を見てとり、他人と違うことを感じ、他人と違う言葉を選ぶことができるからこそ、固有の物語を書き続けることができるわけだ。そして決して少なくない数の人間がそれを手にとって読んでくれているという稀有な状況も生まれる。僕が僕であって、誰か別の人間でないことは、僕にとっての重要な資産なのだ。心の受ける生傷は、そのような人間の自立性が世界に向かって支払わなくてはならない当然の代価である。

「僕が僕であって、誰か別の人間でないことは、僕にとっての重要な資産なのだ」と言えるというのは、「個」がある証拠だと想う。その分、村上さんは相当な努力をしているし、その結果、社会に大きな影響をもたらす小説家になっている。「個」を重視するというのは、他人の話を無視し、自分の好きなようにできるからって何もしなくていいわけではない。自分が「個」として成立するように、常に努力をし続けなければそもそも達成できないものなのだ。

その努力というのは、自分の中の基準というものを、常に達成するということだ。チームで何かを達成できても、自分自身が怠けているのであれば、自分自身に成長は無い。チームではある程度それで達成できることもある。ただ、一人ではそれが許されない。生きていくことができない。そのため、自分に相当厳しくなる必要が出てくる。

そして、最後に。

その人の「変わっている部分」がみんなに喜びを与えたり、なんらかの利益をもたらしたりすることで、みんなはその非属の変わり者を歓迎するようになる

 真摯や一徹は目指すべき姿勢だが,それが独りよがりになり,誰も共感しないようでは,困り者である。「周りの人に迷惑をかけてはいけません」という教えは好意的にとれば,駄目なわがままにならないための注意である。これが人に迷惑をかけない「だけ」に堕してしまいがちなところに日本の問題がある。

 猛烈に仕事をして成果を上げつつ,しかもパブリックのことを忘れない,「信頼できる」人になるためには,梅田氏が書いている通り,精神的自立と自助の精神が欠かせないが,そうした自分を一人で確立することは不可能である。自分はしっかりしている,一人でやっていけると思い込んだ人こそ,困ったわがままであろう。

その「個」を表現する際には、その「個」が何かの役に立たなければならない。そうでないとただのワガママになる。自分の生きていく戦略として「個」を重視するわけであって、他人との関係性無しでは生きていけない。それを「個」で表現するのか、協調性で表現するのかという手法の違いのように思える。

私はどちらかと言うと、自分好きなことをやっていたいほうだ。そのような指向性の人間は、おそらく以前の日本では異端児扱いになるだろう。ただ、先にも行ったとおり、「個」を重視するかどうかは本人次第であり、自分に合う手法をとればいい。合わなければ協調すればいい。「個」を重視するというのは、元々そういう指向を昔から持っていた人が、そうやっているだけだから、昔と何も変わっていない。変わったのは、それが社会との関係性を持てるような「物」が出てきたことだと思う。多様が役に立つ時代が来た。

これからは、一流大学卒の一部のエリートだけではなく、多くの人にチャンスのある時代になりそうだ。今後が楽しみである。