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イメージを形にする

オーケストラの合宿などなどがあって、色々思い浮かぶものの更新が滞ってしまった。ちょっと疲労気味。

先日のエントリーは、ここ数週間抱いてきた私の中のイメージを文章にしたものだ。本当にこの感覚は不思議。誰にも私の頭にあるイメージはわかりようが無いが、確実に存在することは確かなわけで、これは一体何なんだろう。そして文章にして自分で確認したいと思った。してみるとイメージがはっきりするところもあるし、なんか簡略化されてちょっとイメージと距離があるところもある。文章は難しい…。

これがクオリアと言うんだろうと思う。イメージはいい加減な面もあるだろうけど、本当に情報量が多い。音楽は特にそうだが、頭の中に必ずイメージをしてから音を出さなければ、生きている音にならない。もしそれをやらないで、譜面だけにとらわれた演奏をしたりすると、希薄であることがすぐバレる。つまり、演奏と言うのは頭の中にあるイメージを常に実体化していく作業ということだ。

「子供の目」からの発想河合隼雄

天才モーツァルトは、彼の交響曲を一瞬のうちに聴くことができたという。彼がイメージの世界において一瞬のうちに経験したことを、われわれ凡人に理解可能な形で表現すると、それは二十分近い演奏時間を持つ一曲の交響曲となるのである。

もちろん、モーツァルトにはイメージを音楽という形にできる技術があったわけだが、その根源はイメージである。一瞬で交響曲を作曲したと言ったが、その結果の音楽が、本当にモーツァルトがイメージしていたものに近いかどうかというのはわからない。現代の作曲技法が存在すれば、もっと別のものになっていたはずだ。そう考えると、音楽に重要なのは、譜面や技術や音楽そのものだけではなく、もっと深いところにあるはずということがよくわかる。

ある知り合いが、一流の演奏者の動きを全て分析し、そのポイントを再現することで、完璧な演奏は可能だと言っていたことがあった。バカ言っちゃいけない。脳のイメージがその程度の情報量であるわけが無いのだ。人間が分析できるレベルであれば、とっくの昔に人間ロボットができている。実現できていないのは、もちろん筋肉の動きという物理的な問題もあるが、そもそも処理能力が追いつかない。指揮者が棒を振り下ろし、隣の人が音を出した音程(あ、めちゃめちゃ高い!どうしよう)で、次に私がそれなりの音を出せるということが、中途半端な情報処理によって組み立てられるわけが無いのである。

それを考えると、直感というのは軽視してはいけない。直感には感じる以上に情報量があるはずなんだ。