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差を埋めるために

先日、このようなエントリーを書いた。子供みたいなこの主張はさすがに恥ずかしいなぁ、やっぱり消そうかなぁ、と思いながら、あえて消さないで残しておいた。これは本音だからだ。何度考えてもそれは隠しようが無い事実。

嫌だなぁと思うことでも、それを前向きに捕らえ行動するというのも必要だ。私もそれで生活しようとしていて、それなりに会社も通勤電車も面白いことはあるが、何か越えられない壁が見える。それは感覚的に感じてはいながらも、言語化できず、何たるかがわからない。いや、もしかすると目を背けてきていたのかもしれない。

楽をしたいという気持ちは無い。今が取り立ててつらいわけではなく、現状から逃げたいわけでもない。でも何か距離があるだけなのだ。その距離を埋めようと行動していないことも合わせて、不安感が生じてしまっている。

昨日、情熱大陸に大竹伸朗さんが出ていた。とにかく毎日毎日(私には)わけがわからないものを作っている。それが膨大な量になって、昨年全景展をやっていた。

とにかくそれがかっこよかった。都会が嫌いで、四国に住み作品を作っている。都会は何か彼と乖離しているようだ。個々の作品は、「考えちゃだめだ」、「今はなんだかわからないんだ」、とか言いながら作りつつも、もっと大きなレベルで根拠を持っているのが伝わってくる。

彼は、生きる事の不条理に対抗するために作品を作る面があるということを言っていた。私も含め、多くの人は、不条理に立ち向かうとは「不条理の上に乗って向き合うこと」のように思い、そう行動してしまう人は多いのではないだろうか。でも、不条理の上に乗ると、降りないために不条理に従う瞬間がある。それは立ち向かっているとは言えないと思う。

私には未だに多くの「しがらみ」が周りにあるが、それは言わば弱い私を助けるためのものだと思う。「しがらみ」は嫌なこともあるが、それに従うことで、自分の無能な部分が補間され、なんとなくマトモな人間のように振舞えているわけだ。

「しがらみ」は一種の意思である。これまで、私は「しがらみ(世間)」にしたがって動いてきた。学校に行き、会社に入る。そこに私の意志は少ない。その「しがらみ」を完全に断ち切り、孤独な戦いに挑むということは、「しがらみ」という意思を捨て、自分自身の強い「意思」と「根拠」が必要となるだろう。そういうものを持っている大竹伸朗さんがかっこいいと思ったのかもしれない。

不条理に立ち向かうというのは、大変孤独な戦いだと思う。そこで、

独りで生き抜くために必要なこと(5号館のつぶやき)

1)誰にも負けない得意なものを持て
2)ものを作るようになったら絶対に時間給で働くな

「向こうから呼んでもらえるプロになれ」でした。「何でもやりますということが通るのは若いうちだけ。30すぎ、40以上になったらプロ中のプロにならなければやっていけない」。

これを見ると、やらなければいけないことが多く見えてくる。もしかすると、こういう方向性なのかもしれない。これからは、この差を埋める作業をしていきたいと思う。