若冲展 釈迦三尊像と動植綵絵 120年ぶりの再会 へ

若冲展 釈迦三尊像と動植綵絵 120年ぶりの再会
を京都の相国寺に見に行きました。

ものすごい混み具合ということと、10時開館というアナウンスではあるが混んでいるので9時開館となっているという情報を聞きつけ、6時24分の新幹線に飛び乗り、9時前には相国寺に着いておりました。

そしたら、大成功!期間最後の土日で日中は2時間待ちにもかかわらず、15分待ちで入れました。おかげさまで堪能できました。


釈迦三尊像と動植綵絵が揃っているのは圧巻!入った瞬間に鳥肌が立ちました。それぞれの絵も本当にすばらしい。おかげさま(?)でなんで感動したのかを色々考えてしまいました。

その絵画が描かれた時代、書いた人の考え方や気持ちや状況、そういうのを想像すると色々な感覚が生まれます。その考えたことと、自分とがどこか共感したのかもしれません。でも、私の場合前提知識が無かったので、その内容は100%正しくない。作り話なわけです。

ただ、美しさを感じるのは、見た瞬間(第一印象)が大きいというのも事実であり、その美というのには普遍的な共通点があるのも事実で、
それは一体なぜ普遍的なのかというのはまったくわかりません。起源問題のような理屈は美を感じた後についてくるものであるようにも思います。

また、釈迦三尊像と動植綵絵が全て並べられている部屋に入った瞬間に鳥肌が立つというのは、美しさと共に、並べられている状況に圧倒されたんだと思います。そういう美意識もあるのでしょう。

と、色々考えると、感じることって色々な要因が重なり合っているわけであり、一概にどうとは言えないのかなぁという安易な結論に達してしまいます。む〜、でも面白い。


とにかく、音楽も美術も深く考えることによって面白いのは事実なんですね。第一印象で本質的に面白さを感じるのは、ある程度考えられて(知って)からのように思いました。最近、私はクラシックの演奏は前提知識をあえて入れずに聴きます。そうしないと色々な知識が邪魔するので、感動や楽しさを得られないわけです。それはある意味で不幸なのかもしれません。

なので、前提知識があれば深く面白いのですが、それもバランスの問題で、前提知識があれば感動できるもんでもない。でも、それは感動という感情を得るためであり、それを目的としなければ、色々なことを知って解釈したほうがいいということもある。見る側が何を目的とするかということでしょうか。

動植綵絵には魚が泳いでいる絵があるのですが、これは若冲が目で見たものでないことは確かです。今のようにダイビングできるわけでもなし、テレビがあるわけでもなし。この絵に限らず、若冲の意識を通った結果の絵であるわけです。加えて、私が見ている若冲の絵も、目というインタフェースと通して、私の意識の中である一定の解釈を得ている。そう考えると、美術を楽しむというのは、作者との極めて個人的な対話であり、見る人が全て同じことを感じるなんてありえないでしょう。でも、普遍的な美に近いもの(人気も含む?)は存在するわけで、それが何なのか、なぜ共通するのかというのはとても知りたいところです。


若冲ってすごく人気があると言う話ですが、それは最近第一印象(見た目)で判断する人が増えたからじゃないですかね。でも、実は本質は見えないところにある。それを知るには時間も努力もいると思います。ハンカチ王子とかビーチバレーの浅尾さんとかの人気を見て、本質を見る努力をせずに、楽して本質を見ようとしているんじゃないかと思ってしまいました。

これは至極私個人的な感情であり、多くの美術が好きな方はすでに感じられていることなのではないでしょうか。ようやく私も美術を楽しめる第一歩を踏み出せたように思いました。これからが面白くなりそうです。