個人て何だろう

My Life Between Silicon Valley and Japan
自らの傾向や「向き不向き」に向き合うこと

次に新人が洗礼を受けるのは、大企業の「巨大さ」である。その「巨大さ」の中で個の「無力感」を感じてしまうか、その「巨大さ」を楽しめるかどうか。ここもとても重要である。組織は「巨大」であるゆえ、ほぼすべてが「チームプレイ」になる。よってその人が「チームプレイヤー」であるかどうかが、挫折したり幻滅したりしないためには、とても重要になる。体育会出身の人達がじつにうまく日本の大組織にフィットするのは「チームプレイ」ということと相性がいいからだろう。

体育会系の人と相性がいいというのは本当にそう思います。チームプレイというのはある意味自分の頭の思考停止をする必要がありますし、努力と根性という行動の中には、考える前に動く、という考え方が中心になっているのではないでしょうか。だから、多少おかしいと思っても、そこは思考停止し、とりあえず動くという選択になる。それは指示する上司には大変都合がいいことでしょう。

私のいる会社で言う「仕事が出来る人」というのは、おそらくどんな状況に置かれても、どんなことを言われても潰れることなく対処し、向き不向き関係なく、どんな仕事でも前向きにそれなりの結果を出す、という人だと感じています。それって体育会系だよね…。

視点が面白くて大好きな宋 文洲さんが入社式で「おめでとう」と言う“間違い”で書いていた

僕は常に経営者の立場から日本企業の入社式と新人教育を見てきました。すると、入社式は「同質従属型」の人間を作る最初の儀式と思えるようになりました。

これは新鮮な視点です。入社式については完全に思考停止していました。客観的に見てみると、入社式なんてものは、「俺らの仲間に入れてやる」という立場と、「はい、一生付いていきます」という立場の儀式ですよね。

やはり、日本の会社で上手くやっていくためには、「全体性の中の個人」として自分を置かなければいけないということでしょうね。

般若心経の解説書の中に、全体は個の集合ではないとありました。個は全体との関係性を持って全体を作っているため、独立した個が個としてだけ作用し、全体を作っているわけではないということです。「五蘊皆空」で言う全てが関係性から成り立っているという考え方から行くとなるほど、と思いました。

真理として大変的を得ているとおもいつつも、これってすごく日本人的だよね、と思ってしまいました。個は全体性の上に成り立っている。日本人の宗教は世間だ。「人間」という字は中国語で「世の中」つまり「世間」という意味。ということを考えると、日本人に流れている血というのはそういう一因もあるんだろう、と思いました。

今のところ、私はその日本のやり方の全てが悪いと思っているわけではありません。それはそれで大きな効果を出すための知恵なんだと思います。でも、もっと別の方向性も見出したいという想いが今は強い。

だからって、欧米の合理主義の全てがいいとも思わない。むしろ、「五蘊皆空」のような般若心経の真理の方が共感する。そんな中で、自分と言うものの存在と、実現したいコトの狭間で、そのバランスを取れないかと思考しているところです。

一つ、会社以外で必死にやってみるべきでは、と考えています。やってみよう。

このようなことを考えると、古事記とか日本書紀のような日本の起源が書かれているものを読んだ方が良いと思いました。