Wikipediaの公共性

茂木健一郎 クオリア日記

私も茂木先生のWikipediaを見て、これは事実と違うんじゃないか?と思っていました。彼が語っている「脳科学者が集まる会議で、クオリアの重要性について語った際に大ブーイングを受けた」というのは、このような見方をされているということなんだ、と実感。例えば、こんな記述。

茂木健一郎 - Wikipedia

茂木 健一郎(もぎ けんいちろう、 1962年10月20日 - )は、脳科学者、タレント

脳科学者という実態とは異なる肩書きにより、テレビ番組などで、茂木が脳科学の権威のように扱われることがあるが、これは大きな誤解を生んでいる。茂木の専門領域はあくまで心の哲学であり、特に脳科学への造詣が深いというわけではない。

公共性があると言われるWikipediaとはいえども、このような一部の視点での個人的な見解のようなものが述べられている、ということでしょう。Web2.0の一部としてWikipediaが賞賛されていますが、必ずしも客観的視点で述べられているわけではない、という事実に目を背けてはいけませんね。

情報がたくさんあるということは、選択しなければならないということであり、より個人的な判断力が必要になるということ。Wikipediaレベルの公共性になってしまった情報(プラットフォーム)は、情報の信憑性にもレベルによって「お墨付き」みたいなモノが必要なのかもしれない。どうやってやるかは置いておいて。
(つったって、今のテレビや新聞だってどれだけ信憑性があるかなんてわからないし、お墨付きだって同じ。と考えると、昔と違って我々が「選択できる」ってこと自体がいいことなのかもしれない。問題は「選択しなければならない」ということをみんながわかっているかどうかなのかもな…)

ただ、茂木先生が目指していることではない、という点と、このような視点が世間にはある、という点は事実だと思う。正直、こういう視点で茂木先生の主張を見たことが無かったので、これはこれで個人的には新鮮ではありました。

あと、英語のWikipediaでは有り得ないと茂木先生は述べていました。これは英語を読めないので確認できません。Wikipediaの公共性がなぜ生まれるかというと、偏った視点で書かれた記事は、それはおかしいと思う人に編集され、揉まれた結果が記事になる点にあると思います。どうも茂木先生の記事はそれが行われた形跡が無い。それが、「書きかけ」だからなのか、茂木先生に興味がある人が少ないのか、「日本人」だからなのかはわかりませんが。